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【Qurage】はじめましておわります

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Qurageは2004年の8月に地元山形で始めた森によるソロプロジェクト。その前身となるバンドが小・中学の同級生で同じ野球部だった明山と笹原と組んだスリーピースバンド『69(ロクキュー)』。69ではdemoを何枚かと『無情讃歌』というアルバムを作って解散した。


解散の原因は僕が「ビョークをスリーピースバンドで表現したい」と言い出したから。メンバーはリハーサルのたびに困惑しバンド自体が不安定となり、なんとも言えないライブを繰り返し、結果的に「ごめん」と謝り解散。その後、普通の飲み友達に戻った。


69時代、メンバー3人共とにかくコックローチが好きだった。あとナンバーガールをSEに使ったりしてた。山形市のミュージック昭和でスタジオ入ったあと毎週CDをdigして深夜までガストであーだこーだ言いながらドリンクバーと山盛りポテト。それから村山に帰るって流れが本当に楽しかった。


69でなんとか(忘れた…)っていうフェスのオーディションを受けるも落選。そのとき同じく落選したのがshiftだった。セージさんがベースアンプを倒したりツトムさんが鳥を使って(確かカーくんって名前だったような…)MCしてた。めちゃくちゃかっこよくて話しかけたらすぐに仲良くなった。それがshiftとの出会い。


shiftと仲良くなり、彼らが仙台ジャンクボッスクで企画してたイベントに69を呼んでくれた。そこで対バンしたのがairdiveだった。airdiveのユウヤさんとshiftのユウキさんはmoorworksというインディーレーベルをやっていて、後にQurageの1st singleを全国流通してもらうことになる。


同時期にバンド仲間の先輩に連れられて山形市のライブハウス"フランクロイドライト"にWHAT EVER FILMを見に行く機会があった。そのイベントに東京のBALLOONSがゲストで来ていてカルチャーショックを受ける。ライブはもちろんのこと、物販に自分たちの音源よりもディストロのほうが多かったことに驚いたし、当時は理解できなかった。


話を聞けば自分たちが活動してる周辺のことや仲間の音源を違う土地でも知ってもらう為にやっているのだという。そしてそれを企画してるワトエバ(WHAT EVER FILM)のライブもジャンルとか通り越してめちゃくちゃかっこよくて鳥肌が止まらなかった。そして門脇さん(将軍)という人が山形というクソ田舎でも遠くからバンドを呼んでお客さんを集めていることに物凄く影響を受けた。山形でもこんなかっこいいことができるんだと。今思えば20歳の自分には贅沢過ぎる体験だった。


その後もakutagawa、エナメルズ、usahill、ナイロニー、雑木林46、ゴリオリバー、dinnerなどの先輩バンドと共演。新しい音楽を知れば知るほど欲求は深まり、69では表現できないようなバンド像を描くようになっていた。自分も飛び抜けたバンドになりたいと悔しさと焦りと苛立ちが積もり、それがピークに達したときには既に解散していた。そしてすぐに『kurage』を始めた。ようやくここからQurageの話。


Qurage名義の前はkurageだった。"くらげ"は毎月のように通っていた加茂水族館の海月が由来。解散する/しないの心が揺れている時期にただ眺めに行ってはその心地よさと気持ち悪さ、そんな対極のバランス感覚に惹かれ、「くらげにしよ」と(実際水槽の前で呟いて)名前だけは決まっていた。ハードコア/パンク、インディーロック、オルタナティヴ要素が強い(好んでいた)山形の音楽シーンに、違う角度から食い込めるんじゃないかと新しい曲を作りながら毎日企んでいた。


2004年8月

kurageを開始。9月には仙台で仲良くなったエリクトリックハマダさん(濱田多聞さん)をベースとしてサポートメンバーに迎えてのLIVE。僕はエレキギターに浮遊感のあるエフェクター、リズムマシーンを使ったキセルのような編成。濱田さんは隙間を生かした流石な演奏。自由に泳がせてくれる楽しいLIVEだった。濱田さんは山本精一周辺やフィッシュマンズ、sakanaなど今現在も好んで聴いている自分のベースとなっている音楽を教えてくれた恩人でもある。10年経った今でも共演したりと交流が続いており、いまだ影響を受け続けている。


その後も、バンド仲間や仲良くなった友達を中心に実験的な編成でLive活動を行う。Liveが決まるたびに場所や対バンにあった編成を考え、電話で誘うというアナログなやり方だった。当日に思いついて「きょうノイズ出せる?」そんな電話をするときもあった。僕の他に、ギター、ベース、ドラム、キーボード、ターンテーブル、ノイズという7人編成のときもあった(迷惑だっただろなー)。そんな自由な編成で山形を中心にLiveを重ね、自分の周りにはまだない、独自のシーンを形成するために自主企画「AQUARIUM」を始める。


2005年9月

自主企画の1回目は『AQUARIUM〜空気の底〜』という手塚治虫万歳なタイトルにして仙台L'enferという広くはないが筒のような独特なスピーカーが置いてあるBarで開催した。ゲストに仙台で仲良くなった深海魚に出てもらった。この頃はとにかく音楽に貪欲で、日本のアンダーグラウンドシーンをひたすらに掘る日々が続いた。深海魚の小野さんからは灰野敬二、裸のラリーズ、マヘル周辺を教えてもらっては聴き込んでいた。仙台で濱田さんと小野さんに出会えたことが僕にとって重要な転機となった。


2005年10月

山形Sandinistaでトクマルシューゴさんをゲストに迎え『AQUARIUM〜L.S.T.〜』を開催する。トクマルさんの1st ALが海外でも高く評価されてから待望の2nd ALで今後更にヤバイことになるであろうことは予想していたので「呼べるのは今しかない!」と思い徹夜してかいたむさ苦しいメールを送らせてもらったのを覚えている。リハーサル前にトクマルさんとアベシュンスケさんと一寸亭へ。タクシーのおっちゃんが「もっと美味しいとこ知ってるよ〜」とか言ってきてまじで空気読んでもらいたかった。僕は一寸亭好きなんでトクマルさんに喜んでもらえてよかった。Liveは言わずもがな超絶凄くて共演のバンドのバースデーも祝ってくれるサプライズも…泣。今でもトクマルさんを山形に初めて呼んだの俺!みたいなこと言っちゃうことある。器ちっちゃいのもわかってる、でもそれくらい嬉しかったことだから許してくれ。


そして同じ時期に初めて海外のバンドと共演の機会を頂く。shiftのユウキさんとairdiveのユウヤさんがやっているmoorworksからリリースしたUSのCRIME IN CHOIRの仙台enn公演に出演。クライムインクワイヤは初期At The Drive Inのメンバーや31Knotsのドラマーのジェイが在籍しているマスロック/プログレ/インストバンド。もはやPink Floydな凄腕なパフォーマンスは22歳の僕には未知の世界過ぎて鼻血もんだった。そしてクライムのみんながQurageを真剣に見てくれたことにも驚きだった。当時エフェクターを並べれるだけ並べたセットで演奏していたのでテクはないがやたらスペーシーでサイケっぽい歌モノになっていた。ギターの音がピュンピュンするたびにヒューとかイエャーとか歓声が上がり、それは今まで感じたことのないLiveだった。自分も含め、日本では腕を組んでただ見ているだけのお客さんが多い中、誰よりも楽しんでいるのがクライムのみんなだった。長距離移動で疲れているにも関わらず、ちゃんと共演者の演奏も見てくれるし心から楽しんでいる姿にカルチャーショックを覚えた。


2006年2月

上京と同時にお世話になっていたmoorworksから1st single《SAKANOBORU》500枚限定500円で初めての全国リリースしてもらうことに。shiftのユウキさんから電話が来て「モッコ、CD出すべ!」その一言で決まった。発売後、下北沢のハイラインレコーズなどでプッシュされている現場に居合わせ、なぜか同じパネルで展開されている関連商品(二階堂和美とか)を買いまくるという暴挙に出る。おそらくそれが最大級の喜びの表現だったのかもしれない。謎過ぎる。シングルとはいえ時代はCD全盛期。こんなに嬉しいことはなかった。


上京して初ライブは渋谷O-NEST。そして贅沢なことに錚々たる面々のオープニングアクトとしての出演。まずアメリカからmoorworksが呼んだCROOKED FINGERS、そして大好きなキセル、そして気が狂いそうなほど好きだったブッチャーズの吉村秀樹さん、& recordsのfolk squat、そしてトクマルさんの1stをリリースしたMusic Relatedのレーベルオーナーでもあるアメリカのpandatoneという豪華過ぎる面子。ひとりでスクリーンに映像(VJ)を使いながらディレイを駆使した弾き語りのスタイル。緊張しまくってたので自分の演奏を全く思い出すことができない。


2007年1月

上記の東京初ライブをキセルとfolk squat目当てで見に来ていた鬼頭洋行がHPのメンバー募集にメールをくれる。すぐにスタジオに入り、その日のうちに次のライブに誘うことになった。言葉数が少なくシャイな印象だったが、年齢も近く(1つ下)弾き語りの曲をほんの少しドラマチックにしてくれるような前に出過ぎないドラむだった。僕もそれを望んでいたからぴったりだった。


そして時を同じくしてキセルのLIVEに来ていた宮本陽子さん(クラリネット)と出会う。意気投合しサポートメンバーになってもらう。テニスコーツとUSインディーを行ったり来たりするような時期で、半分半分のようなLIVEを展開していたように思う。自由なスタイルでやっていきたい反面、どっちつかずでライブハウスの轟音の気持良さから抜け出せないのが悩みだったように記憶している。だからこそ宮本さんのクラリネットという管楽器は、どちらにでも行きたい僕のわがままな性格をわかってくれてるようで安心できた。この頃から宮本さんと鬼頭くんの三人で演奏することが多くなる。


仙台一番町Apple Storeで音楽と写真を融合させた自主企画『空中庭園』を開催。フィルムカメラで写真を撮るのにハマっていた時期で自分の写真をスクリーンに映しながら演奏することを模索していた。Apple Storeから話がきたのでMacで映してLIVEをやった記憶がある。空中庭園というタイトルはキョンキョンが出てるのもあって好きな世界観の映画だったから。


続きはZINEで…


by mori-koji | 2018-11-17 17:04 | QURAGE関連記事

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